新説・日本書紀⑤ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)3月17日 土曜日
神代紀終章 豊国・倭と火国・山門の興隆
漢の倭奴国の隆盛
天神饒速日尊の降臨から始まった倭奴国は後漢への朝貢を続けた。
太宰府天満宮に伝わる唐代の百科事典で、天下の孤書「翰苑」にある後漢書には「光武の中元二(57)年、倭国、奉貢朝賀し、使人自ら大夫(周代の官名)と称す。光武賜うに印綬を以てす。安帝の永初元(107)年、倭王師升等、生口百六十を献ず」とある。瀬戸内海に浮かぶ生口島(広島県尾道市)には、中国に献上された「生口」(奴隷)が囚われていたとの伝承が残る。生口の地名は同市以外には見当たらない。
また、先代旧事本紀には、饒速日の子とされる可美真手命(古事記では宇摩志麻遅命)が、筑豊から瀬戸内海を東遷、大和国(奈良県)の哮峯に舞い降いおりたと記され、筑紫物部氏の東征という史実を語っている。筑豊の物部氏と大和国とのつながりを示す例はまだある。嘉麻市馬見の馬見神社周辺を本拠とした馬見物部氏。「馬見」という地名は、全国でも嘉麻市と奈良県河合町の馬見丘陵公園や同県広陵町にしかない。2世紀初めには、田川を都とした倭奴国が近畿以西に進出した痕跡ではないか。
もう一つの葦原水穂国
豊国の倭奴国が隆盛を誇る中、南でも葦原水穂国が新興した。火国(=肥国)山門。中心地は熊本県の菊池川流域にある菊鹿盆地だ。太古に大きな湖があった。
熊本県教委文化課の調査では、小野崎遺跡(菊池市)からは弥生式土器や後漢鏡、鉄鏃(鉄の矢じり)、鉄斧(鉄の斧)、鉄製の釣針2本などが出土。縄文~古墳時代の出土物はコンテナ2千箱分に上る。吉野ケ里遺跡に匹敵する大環濠集落のうてな遺跡(同)からは8~23年の新王朝の貨幣、城ノ上遺跡(菊池市)からはジャポニカ種のもみ痕がある弥生土器が出土した。
これらのことから、菊鹿盆地と長江下流との関連性がうかがえる。ジャポニカ種の米は、長江下流から広がったとの定説がある。また、考古学者の奥野正男氏らの説では、弥生期の製鉄技術は長江下流から北部九州に波及したとされる。山鹿市には特別天然記念物のアイラトビカズラが生息しているが、市の解説には原産地が長江流域とある。
両地域の関わりを記した文献もある。国立国会図書館などに所蔵される「松野連姫氏系図」だ。冒頭には「夫差―公子忌―順」とある。夫差は春秋時代に長江流域を治めた「呉」の最後の王だ。中国の史書には紀元前473年、「越王句践呉を滅ぼす」とある。系図は公子忌について「孝昭天皇三(紀元前473)年来朝し火国山門に住す」、順は「委奴に居す」と注を施している。
系図には断絶や脱落も多いが、日中の史書を分析、総合すると、1世紀後半、菊鹿盆地に神代最後の王、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊が現れたと推定する。日本書紀では、この王が神日本磐余彦尊(後の神武天皇)らを生み、日向の吾平山上陵に葬られたと記す。山鹿市に吾平山と吾平山陵が実在する。
ところで、「呉越同舟」という故事成語がある。呉を滅ぼした越は紀元前334年、楚に滅ぼされた。この時、仲の悪い呉越の民が同じ船に乗り、東海の島に逃れたのではないか。呉の民は菊池川流域に、越の民は遠賀川流域に移住した。あくまでも推量の域を出ない仮説だが、後の神武東征や魏志倭人伝に出現する邪馬台国の数々の謎を解く鍵にもなるのである。
次回は3月31日に掲載予定です
川崎町にある天降神社の由緒書き。主祭神には神代最後の王「鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」が祭られている。
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